来てはいけないところへたどり着いたのかもしれない。
もしかしたら違うかもしれない。
でも、すとん とおさまる場所を見つけた。
僕はただ、いい文字やいい線が見たい。
うまい文字ではない。美しいだけでもない。
人が、あの人はいい人だとか言う、
そういうところ。
いい文字や、いい線を書く人になりたいだけだ。
今までどうして言葉に興味がないのかわからなかった。
いつからか、何を書いているのか、何を書くか、
という問題は自分の中でそう大きなことではなくなった。
いつかの自分を想うと、まるで別人だと思う。
だから、僕はどこかに言葉を置いてきてしまったのだと思っていた。
言葉を失ってしまったのだと思って、探さなくてはいけないような気がしていた。
でも、なんか違うと思っていて、
そのなんかがずっと分からなかった。
自分の文字を信じている。
だから、いい文字というのは自分の中から出てくると思っている。
もちろんたまらない文字は外にもある。
ただ、自分の中にもあって、それを単純に見たいから、
きっと書いているんだと思う。
最近森と書いていた理由もわかった。
森が好きなわけではない。
ただ、自分が見たいような、いい線やいい形が、
森の字からは生まれやすいと感覚で気づいたんだと思う。
だから、ずっと書いていた。
でも理由が分からなかったから、
なんか見せ方を考えて作品に見えるようにしたり、
何か発見したような振りをしていた。
ゆき もそうだ。
ゆ は、形として空気を含みやすい。
だから、気持ちがいい形になる。
線の傾きを変えれば、いくらでも下に続けられるし、
斜めにもいける。別に「ゆき」そのものが好きなわけではない。
でも分からなかったし、何か見つけたようなことをしなくちゃ、と思って、
色々作った。雪の光景が好きなことには嘘はない。
いい文字を探したい。
いい文字を書きたい。
見てみたい。
しかも、自分の中から生まれるもので。
あー
まずい。けど仕方ない。
他人の自分が、他人の自分の文字のファンなのだよ、きっと。
厄介なのは、自分の体は一つだということだ。
コミュニケーションとか一切ない。
他人に伝えようなんて気がまずない。
あーそうか。だからか。
自分で書いて、自分で見つけて、自分で反省している。
自己反省、自己完結。
あー、ね。
もう仕方ない。これそのまま出すしかないし、
この二年の研究って、そういうことだったのかもしれないと思うと、
全部繋がる。
「僕はいい文字が見たいから自分で書いていて、ずっとそれを探していて、
たまに見つけてクーってなって、また探し始める。
それはこれから先もずっと続いていくんです。
今までの実験は、全部いい文字を見つける、書くためでした。
文字を使って別の何かを見出そうとしたり、
発見しようとなんかしていませんでした。
それに気づきもしないで、何か発見しているように、
「見せ方」で見せていました。
だから、おにぎりもたぶん、たまたま出てきただけで、
全然自分のものではありません。
あれたぶん他人の自分のものです。
大きいおにぎりは確かにおもしろいと思うし、
海苔を小さい文字で書くことによって、
一瞬では終わらない、「時間をかけたつもり」の作品を作っただけでした。」
だからずっと違和感があったのか。なるほどー。
ってことは、修了制作、何書こう。
言葉に興味はないから、いい形が生まれやすそうな文字、になるのだろう。
それをまずは探して。
これは誰にも分からないんだから、
自己反省自己完結をそのまま書きだすか。
ノートも全部見せて、それすら作品にして。
文字の横には自分の注意事項。
これはいいだの、これはたまらない、だの。
これはあまり良くないだの。
ここを見てくれ、というのも全部自分で設定して。
講評で説明をしすぎている、って既に言われてたな。
うーんそうかどうしようかな。
何も書かなかったらそれはそれでコミュニケーションが、とかになるしな。
でもそこを気にしたら次はアーティストとしてどうか、とかなるし。
まあそこはいい。
とにかく大切なことは、僕は誰よりも見たがっているということ。
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